演奏家も役者です
どうも!タラッタです。
最近、
演奏にまつわるお話が多い気がしますが、
今日も演奏関係のお話です。
音楽をやってない方は、
演奏=スピーチor接客or営業・・・
といった具合で、
読みかえていただいてもOKです♪
タイトルにあるように、
「演奏家⇒役者」ということです。
(⇒は「ならば」を表します)
しかし、その逆、
「役者⇒演奏家」は成り立ちませんので、
書き添えておきますね。
では、なぜ、
「演奏家⇒役者」なのでしょうか?
答えは簡単です。
俳優という名の役者は、
ある役柄に成り切って、
台詞や演技を使い、
皆でひとつの世界を創り上げますよね。
声優も同じく、
声の演技を使って、
皆でひとつの世界を創り上げます。
朗読家なら、
「読み手」という役で以って、
ひとりで客観的に世界を創り上げます。
そして演奏家は、
音楽という手段を使って、
ひとつの世界を創り上げます。
ピアニストなら、
ピアノで音楽を奏で、
ひとりで何かしらの世界を、
声楽家なら、
歌うことで、
共演者とともに何かしらの世界を、
創り上げるのです。
・・・結局は、
原理としては、
俳優も演奏家も、
役者としての働きをしているのです。
「演奏家なんか、
なんの役柄も演じないだろう!」
という見方もありますが、
いえいえ、
とんだ誤解ではないでしょうか?
恋の歌を歌う人は、
恋する人物に成り切っているはずです。
バッハのオルガンの大曲を弾く人は、
天と結ばれた神々しき者になっています。
だからこそ、
ひとつの世界を聴き手に提供できるわけです。
ところで、
「演じる」という言い方があります。
しかし私は、
少し、この言葉に違和感を抱いています。
例えば、癌患者の役をやる人がいたら、
一流である彼は、絶対に演じてなんかいません。
完全に、
癌を患っている人に成っているでしょう。
生い立ちも、身も心も、境遇も、
全てがその人物なのです。
つまり、それこそ「真実」であり、
「演じる」の真意なわけです。
「ゴンドラの唄」(中山晋平作曲)で有名な、
黒澤明監督の映画『生きる』の、
余命幾ばくもない癌患者を演じた志村喬は、
頬骨が見えるほど減量したそうです。
しかも、
“素の自分”であるときですら、
弱い声で、陰気で、食事もままならず、
末期の癌患者に変貌していたのです。
家庭内までもが重い空気になっていて、
妻は神経が病みそうになったそうです。
でも実際は、
志村氏本人は癌ではなく、
胃潰瘍だったらしいです!
・・・この役者としての姿勢には
賛否両論があると思いますが、
素直に、感服せざるを得ませんでした。
演奏家は、
オペラ歌手やミュージカル歌手でないと
実際に動いて演技することは少ないですが、
音楽を介して世界を創り上げる上で、
役者としての魂があるのとないのとでは、
断然演奏にも差が生まれると思います。
嘘の世界を創らず、
真実の世界を創りましょう!
では、どうすればいいか??
その方法、
とまではいきませんが(いけませんが)、
糸口を、
明日お話ししたいと思います。
音楽をやっていない方にも
役立つお話となれば、
と思います。
参考文献:澤地久枝『男ありて』(文芸春秋社)